奈良の葬儀・お布施

檀家としてのお付き合い不要

奈良での葬儀・葬儀費用軽減
葬儀費用を葬儀物品から安くは当然ですが、「葬儀は、葬儀社に依頼」、「お坊さんの読経は、お坊さんに依頼」と、別々に依頼することが「安いお布施」に繋がり、葬儀費用の軽減になります
「お坊さんのお経」
☎ 072-772-7422
火葬式・葬儀でのお経・お布施

1日葬・葬儀でのお経・お布施

一般葬・葬儀でのお経・お布施

奈良の葬儀情勢

奈良は、奈良市が関係する市営葬儀、規格葬儀はありません。
只、奈良には火葬場があり、火葬場に併設する葬儀式場はあります。
奈良は以前あった火葬場を廃止し、新たに「奈良市斎苑旅立ちの杜」を設けました。(令和4年4月1日)
奈良・火葬場
「奈良市斎苑旅立ちの杜」施設概要
奈良市に東山霊苑火葬場が開設されたのが1916年。以来、故人を送る場として、百年以上もの歳月を重ね、多くの旅立ちを見守ってきました。
その火葬場が、新施設「奈良市斎苑旅立ちの杜」へと受け継がれました。
この施設は60年にわたる建て替え計画を経て、故人とご遺族を穏やかに包み込む新たな見送りの画が完成したわけです。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」告別式兼収容室
告別室と収骨室、炉前ホールの機能が一体となった部屋を火葬炉2基に対し1室設置しています。
他のご遺族と錯綜しないプライバシーが確保された厳粛な空間で、大切な方との最後のお別れを行って頂きます。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」火葬炉
華美な装飾を廃止し、普遍性のある厳粛で静ひつな葬送空間とし、故人の尊厳やご遺族・会葬者の心情に配慮します。
環境保全に配慮した最新式の設備で、co2排出量が少なく環境にやさしいLPガスを燃料としています。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」多目的室
直葬や小規模なお別れに対応する多目的室。
特殊な事情による直葬に対応できるよう車寄せに面して設置。
小規模なお別れが行え、遺族控室や僧侶控室を併設します。
「奈良市斎苑旅立ちの杜」待合ホール
火葬時間中の待合等に利用できます。
目の前に高円山を、遠くに奈良の街並みを眺めながら、静かな時間を過ごせます。
奈良の葬儀関係→奈良・おくやみ
奈良市の情勢
奈良は、710尼「平城京」として都が開かれ、シルクロードの東の終着駅として天平文化の華を咲かせ、かって日本の首都だった70余年の間、政治経済の中心地としておおいに栄えました。
最盛期には人口が10万人いたと言われています。
784年に都が長岡京に移った後も平城京を飾った諸大寺はそのまま残され、「南都」と呼ばれるようになり、社寺の都として生まれ変わりました。
11世紀から12世紀にかけて東大寺、興福寺、春日大社、元興寺などの社寺が勢力をもち、社寺の仕事に携わる人や農民が住む町が境内の外に出来、それらは、「郷」と呼ばれました。
12世紀後半の戦火によって多くの社寺や郷が損壊を受けましたが、復興事業が活発に進められ、郷は以前にもまして充実し、今日の奈良の原型が形作られました。
15世紀後半には応仁の乱を避けて、京都の貴族や商人が奈良に疎開してきたこともあり、京都との関係は一層親密になりました。
又、自治都市「堺」との交流も深まり、商業や手工業が発達しました。
16世紀初めには東大寺、興福寺といった支配を超えて郷と郷との連合が進み、1567年の戦乱で東大寺大仏殿は再び焼失しましたが、郷民によるまちづくりが発展し、1595年の文禄検知によって、近世の奈良町が成立しました。
明治維新には廃仏毀釈により多くの寺院が衰退し、廃藩置県の後奈良県は一時期、堺県や大阪府に合併されましたが、1887年には奈良県庁が奈良町に復帰し、1898年に人口29,986人、面積23,44㎢の規模で奈良市制が施行されました。
1892年にJR関西線が開通しました。
1914年には、奈良・大阪間が開通しました。
2005年4月には、奈良市、月ヶ瀬村、などが合併し新生「奈良市」が誕生しました。
奈良市の位置
奈良市は、奈良県の北端に位置し、西は生駒山、南は大和郡山市、天理市、桜井市、東は宇陀市・山辺郡山添村・三重県伊賀市、北は京都府に接しています。
奈良市は、東西33,51㎞、南北22,22㎞、面積は276,94㎢で奈良県の総面積の7,5%を占めています。
奈良市の人口など(令和5年1月1日現在)
人口:351,418人、世帯数:166,772世帯