葬儀社とお坊さんは別々に依頼

良心的なお坊さん=安いお布施
お葬式費用の軽減のため、お坊さんは葬儀社とは別々に依頼しましょう
別々の依頼が、お布施は良心的・安いお布施となります
安心・良心的な「お葬式&お坊さん」
☎ 072-772-7422
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良心的なお坊さん

葬儀は、浄土へと旅立つ儀式



葬儀・葬式では、死者が戒名を頂いて仏弟子となり、浄土へと旅立つ儀式です。
死者は浄土で仏に導かれ、49日後に悟りを得て仏になる(成仏)と言われています。
四十九日法要は、その区切りとして行われるのです。
葬儀は、仏教を起源としている

葬儀は、元々仏教を起源としています。この葬儀(葬儀式)は、故人を極楽浄土に旅だたせる儀式であり、お坊さんの読経(お経)で故人を成仏させます。
「お葬式&お坊さん」は
お布施、何故安い
人の死に対し故人を偲び、残された遺族は心穏やかな日々を過ごしてもらいたい、という思いで読経を行いたいからです。



必ず、葬儀社と僧侶の読経は、別々に依頼を!



お葬式(葬儀)となった場合、葬儀社とお坊さんは別々に依頼しましょう。葬儀方法は3方法で、そのうち1つの方法を選んで葬儀を行います。お坊さんの読経(お経)は、いずれの方法でも対応します。
「お葬式&お坊さん」
どのお葬式・どの葬儀社にも対応



近年は多数の葬儀社が乱立し、色々な葬儀方法で集客を行っています。ですが、
お坊さんの読経(お経)は、どの葬儀・どの葬儀社にも対応します。
(お葬式&お坊さん ℡ 072-772-7422)
葬儀式無しでも、お経はあげる



死亡後、葬儀式をしなくても、ご遺体を火葬に付すまでに、一度はお坊さんのお経をあげましょう。
参考→読経
火葬場でのお経(火葬式)



葬儀(お葬式)となった場合、葬儀式(告別式)を行わなくてもご遺体を火葬する前に一度はお坊さんにお経をあげて頂きましょう。火葬場でお経をあげる葬儀(お葬式)を火葬式(直葬)といいます。
葬儀社とは別に、良心的お坊さん(お葬式&お坊さん ℡ 072-772-7422)に依頼しましょう。
※お布施
葬儀の方法は3方法
家族葬の葬儀方法も3方法
| 直葬 (火葬式) ![]() ![]() | 1 日 葬![]() ![]() | 一 般 葬![]() ![]() |
直 葬

直葬とは、死亡後24時間遺体を安置した後、葬儀式など行わず火葬に付す葬儀方法です
火葬式-直葬の1つ

火葬式とは、直葬の1つで、死亡後24時間遺体を安置した後、葬儀式などなく火葬に付すのですが、火葬の直前にお坊さんの読経(お経)で故人を送る葬儀方法です
1日葬

1日葬の葬儀とは、通夜式が無く1日で葬儀を行う葬儀方法です
死亡後の通夜式が無いため、葬儀時間が短縮されます
1日葬の家族葬もあります
一般葬

一般葬の葬儀とは、従来から行われている通夜式があり翌日に告別式を行う葬儀方法です
一般葬の葬儀は家族葬もあります
檀家としてのお付き合い不要
火葬式・葬儀でのお経・お布施

1日葬・葬儀でのお経・お布施

一般葬・葬儀でのお経・お布施

葬儀前の枕経(まくらぎょう)

葬儀社依頼前のお経
枕経(まくらぎょう)
枕経とは、亡くなって何をおいても、直ぐにあげるお経なのです。
勿論、葬儀社に依頼する前にあげるお経です。
葬儀・法事の読経対応地域

葬儀の時、お坊さんと葬儀社は、

別々に依頼
「お葬式&お坊さん」へ
☎ 072-772-7422
姫路での葬儀・家族葬

姫路には、市民葬儀・規格葬儀はありません。
葬儀時の読経は
「お葬式&お坊さん」へ
姫路・葬儀関連
姫路には市営葬儀・規格葬儀無し
姫路市には、市営葬儀・規格葬儀はありません。
斎場には50名程度が入れる葬儀式場がありますが、個人的には借り上げすることは出来ず、葬儀となった場合は、葬儀社を通じて式場の借り上げとなります。
1日24時間借りた場合30,550円の費用がかかります。
これは、式場借り上げだけのお値段です。
姫路で火葬
姫路には、名古山斎場があり、火葬場付設の葬儀式場があります。
式場を使用する場合は葬儀社に申し込んでからの利用となるようです。
名古山斎場
所在地:姫路市名古山町14番1号
火葬の手続き
姫路市の窓口に届け出し、名古山斎場、清水谷斎場を利用することが出来ます。
死亡届により、火葬許可証が交付されます。
通夜・告別式が執り行えます。
詳細な問い合わせ先
姫路市役所市民局市民生活部名古山霊苑管理事務所
姫路の葬儀→姫路・おくやみ
姫路広報・ご不幸
戸籍などの届け出
〇 亡くなられた時
死亡したときは、死亡の事実を知った日から7日以内に、死亡地、死亡者の本籍地または届出人の所在地の市区町村の担当窓口へお届けください。
死亡届の提出は葬祭業者が代行することが多いため、依頼される葬祭業者に確認してください。
〇 届出手続き
窓口
住民窓口センター・支所・地域事務所・駅前市役所・出張所・サービスセンター
必要なもの
死亡届書、死亡診断書(通常、死亡届書と一体になっています。死亡した病院などで交付されます。A4サイズの死亡診断書をお持ちの場合は、A3サイズの死亡届の右半分に張り付けるか、死亡届と一緒に提出して下さい。)
亡くなられた方が次の書類をお持ちの場合は、死亡届とともに返却してください。
ア国民健康保険証または後期高齢者医療被保険者証(加入者のみ)
イ印鑑登録証(印鑑登録者のみ)
ウ介護保険被保険者証(被保険者のみ)
エ身体障害者手帳(手帳所持者のみ)
受付時間
・住民窓口センター、支所(飾磨支所を除く)・地域事務所・出張所・サービスセンター
平日 午前9時から午後5時まで
・駅前市役所
毎月第3土曜日及び12月31日から翌年1月3日までを除く毎日、午前10時から午後7時まで
・飾磨支所
毎月第3土曜日及び12月31日から翌年1月3日までを除く毎日、午前9時から午後7時まで
備考
上記時間外は、市役所南玄関(夜間・閉庁日)で受け付けています。
休日・夜間に出された届についての証明は、住民窓口センターの翌営業日以降になります。
死亡届を提出いただいた後、火葬許可証交付の際に、死亡後の手続きをまとめたおくやみハンドブックをお渡ししています。
関連する手続き
葬祭費の申請(国民健康保険に加入している場合)
担当・お問い合わせ 国民健康保険課
葬祭費の申請(後期高齢者医療保険に加入している場合)
担当・お問い合わせ後期高齢者医療保険課
〇火葬手続き
通常は葬祭業者が行います
申し込みは電話でできます
〇おくやみ窓口(事前予約が必要です)
お亡くなりになられた方に関する市役所内の手続きについて、死亡届の提出後に必要な申請の受付、担当部署の案内を行う「おくやみ窓口」を開設しています。
ぜひ、ご利用ください。姫路市住民窓口センター おくやみ窓口
予約希望日の4開庁日前の午後4時00分までにご連絡ください。(正午から午後1時00分までを除く)
予約状況により、上記までにご連絡いただいた場合でもご希望に沿えないことがあります。
おくやみ窓口
場所
姫路市役所(本庁舎) 1階 住民窓口センター
対象者
姫路市に住民登録があった方のご遺族
利用方法
電話で予約
概要
複雑な手続きなど、おくやみ窓口で受付できない申請については、各担当窓口をご案内します。
主な手続き内容
後期高齢者医療保険課、国民健康保険課、介護保険課、高齢者支援課、障害福祉課、福祉総務課(福祉医療)に関する手続き
おくやみ窓口ご利用の流れ
電話予約
おくやみ窓口が必要な手続きを調査
当日受付
※所要時間は手続きによって異なりますが、概ね1時間程度かかります。
すべての手続きがおくやみ窓口でできるわけではありません。年金事務所等で行う手続きなど、内容によりおくやみ窓口や市役所内ではお手続きできないものもございます。
おくやみ窓口をご利用にならず、直接各担当窓口、または支所、地域事務所、駅前市役所、出張所、サービスセンターでお手続きいただくこともできます。
火葬申請書の申請
火葬証明書の申請ができる方
火葬許可証の申請者
死亡者の祭祀を主宰する方(ただし、火葬許可証の申請者が亡くなられている場合に限ります。また、下記の添付書類が両方とも必要です。)
火葬許可証の申請者の死亡記載のある戸籍謄本
死亡者と祭祀を主宰する方との関係がわかるもの(戸籍謄本、家庭裁判所が祭祀の主宰者を指定した審判書(調停書)謄本、被相続人が祭祀の主宰者を指定した公正証書など)
※注意事項
火葬証明書が発行できない場合があります。死亡日と火葬日をご確認の上、申請前に問い合わせてください。
申請方法
来所での申請のほか、郵送請求が可能です。
姫路市ホームページ
亡くなられたとき(死亡届のご案内)
死亡したときは、死亡の事実を知った日から7日以内に、死亡地、死亡者の本籍地または届出人の所在地の市区町村の担当窓口へお届けください。
死亡届の提出は葬祭業者が代行することが多いため、依頼される葬祭業者に確認してください。
届出手続き
届出窓口
住民窓口センター・支所・地域事務所・駅前市役所・出張所・サービスセンター
必要なもの
死亡届書、死亡診断書(通常、死亡届書と一体になっています。死亡した病院などで交付されます。A4サイズの死亡診断書をお持ちの場合は、A3サイズの死亡届の右半分に張り付けるか、死亡届と一緒に提出してください。)
亡くなられた方が次の書類をお持ちの場合は、死亡届とともに返却してください。
国民健康保険証または後期高齢者医療被保険者証(加入者のみ)
〇印鑑登録証(印鑑登録者のみ)
〇介護保険被保険者証(被保険者のみ)
〇身体障害者手帳(手帳所持者のみ)
受付時間
住民窓口センター、支所(飾磨支所を除く)・地域事務所・出張所・サービスセンター
備考
上記時間外は、市役所南玄関(夜間・閉庁日)で受け付けています。
休日・夜間に出された届についての証明は、住民窓口センターの翌営業日以降になります。
死亡届を提出いただいた後、火葬許可証交付の際に、死亡後の手続きをまとめたおくやみハンドブックをお渡ししています。
関連する手続き
| 申請 | 問い合わせ |
| 葬祭費の申請(国民健康保険に加入している場合) | 担当・お問い合わせ 国民健康保険課 |
| 葬祭費の申請(後期高齢者医療保険に加入している場合) | 担当・お問い合わせ 後期高齢者医療保険課 |
おくやみ窓口
場所
姫路市役所(本庁舎) 1階 住民窓口センター
対象者
姫路市に住民登録があった方のご遺族
時間
平日のみ。1日5枠の事前予約制
①午前9時00分から②午前10時00分から③午前11時00分から④午後1時30分から⑤午後2時30分から
1日5枠の事前予約制み。
利用方法
お電話にてご予約ください。
ご予約・お問い合わせ
姫路市住民窓口センター おくやみ窓口
姫路の情勢
姫路は、兵庫県の南西部、瀬戸内海に面した播磨平野の中央に位置し、姫路市域は東西36㎞、南北約56㎞で総面積が約534㎢の播磨の中核都市です。
姫路から神戸まで約50㎞、姫路から岡山まで約70㎞、姫路から大阪や鳥取までは80から90㎞の直線距離にあり、京阪神、中国、山陰を結ぶ交通の要衝となっています。
姫路市域北部は、森林や田園が広がるとともに、標高700から900m級の山並みが連なっています。
姫路市域の中南部は、姫路城や姫路駅を中心に市街地が広がっています。
姫路は市川、夢前川、揖保川などの河川が南北に流れ、瀬戸内海には大小40余りの島が点在し群島を形成しています。
姫路の気候は瀬戸内海型気候に属し、四季を通じて温暖な日が多い地域です。
姫路の人口は、約53万人で、県内第2位となっています。
姫路の呼び名
「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。神代の昔、大汝命は、その子火明命があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。
その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥丘」「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子の流れ着いたところが「日女道丘」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。「蚕子」は古語で「ひめじ」といいました。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます。
姫路城の歴代城主・一覧(姫路藩・歴代藩主)
姫路城には数多くの歴代城主がいます。戦国時代には黒田官兵衛や豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)などが城主をつとめたことでも知られていますが、「関ケ原の戦い」後に入城した池田輝政によって現在残る姿に大規模に修築されました。
江戸時代に入るとさらに多くの大名が入れ替わり立ち代わり城主をつとめています。
西国大名を抑えるための重要な城であったため、世継ぎが幼少の場合は国替えを行い、池田氏時代以降も、本多氏、榊原氏、酒井氏と譜代大名が城主を努めています。
参考→姫路城
| 歴代 | 西歴(和暦) | 城主 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | 1346年(貞和2年) | 赤松貞範 | 赤松則村の次男称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とする。 |
| 2 | 1349年(貞和5年) | 小寺頼季 | 赤松則村の一族。貞範が新たに庄山城を築城して本拠地を移すと城代となり、以後は小寺氏代々が城代を務める |
| 3 | 1352年(文和元年) | 小寺景治 | |
| 4 | 1357年(延文2年) | 小寺景重 | |
| 5 | 1403年(応永10年) | 小寺職治 | 「嘉吉の乱」で赤松満祐に属していたため討死した。 |
| 6 | 1441年(嘉吉元年) | 山名持豊 | じっさいには山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。 |
| 7 | 1467年(応仁元年) | 赤松政則 | 赤松満祐の弟の孫。本丸・鶴見丸・亀居丸を築く。 |
| 8 | 1469年(文明元年) | 小寺豊職 | 政則が置塩城に本拠地を移したため城代になる。 |
| 9 | 1491年(延徳3年) | 小寺政隆 | 豊職の子。御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になる。 |
| 10 | 1519年(永正16年) | 小寺則職 | |
| 11 | 1531年(享禄4年) | 八代道慶 | |
| 12 | 1545年(天文14年) | 黒田重隆 | 則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。 |
| 13 | 1564年(永禄7年) | 黒田職隆 | 黒田重隆・職隆父子の時代に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張した。 |
| 14 | 1567年(永禄10年) | 黒田孝高 | 職隆の子。いわゆる黒田官兵衛のこと。中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、孝高は姫路城を秀吉に献上し、自らは国府山城に移る。 |
| 15 | 1580年(天正8年) | 羽柴秀吉 | のちの豊臣秀吉。大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。明智光秀を山崎の戦いで討ち果たしたのち、大坂城へ移った。 |
| 16 | 1583年(天正11年) | 羽柴秀長 | 秀吉の弟。大和郡山へと転封となったため、替わって木下家定が入った。 |
| 17 | 1585年(天正13年) | 木下家定 | 杉原定利の長男。秀吉の正室であった高台院の兄(弟とする説もある)。 |
| 18 | 1600年(慶長5年) | 池田輝政 | 織田信長の重臣・池田恒興の次男。姫路藩初代藩主。「関ケ原の戦い」の戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。8年掛けた大改修を行い、広大な城郭を築き、姫路宰相と称された。 |
| 19 | 1613年(慶長18年) | 池田利隆 | 輝政の嫡男。岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となった。 |
| 20 | 1617年(元和3年) | 池田光政 | 利隆の嫡男。幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。 |
| 21 | 1617年(元和3年) | 本多忠政 | 光政の転封にともない、播磨の所領は中小藩に分割され、姫路には徳川四天王のひとり本多忠勝の子、忠政が15万石で入封した。 |
| 22 | 1631年(寛永8年) | 本多政朝 | 忠政の次男。母は松平信康の娘・熊姫。忠刻が病死すると、宗家の嫡子となる。 |
| 23 | 1638年(寛永15年) | 本多政勝 | 忠政の甥。本多忠朝の次男。政朝の死去後、養子となって継いだ。「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという。 |
| 24 | 1639年(寛永16年) | 松平(奥平)忠明 | 奥平信昌の四男。母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。江戸幕府の宿老として幕政に重きを成した。寛永21年(1644年)3月25日、江戸藩邸で死去した。享年62。後を長男の忠弘が継いだ。 |
| 25 | 1644年(正保元年) | 松平(奥平)忠弘 | 忠明の長男。1634年(寛永11年)には父に伴われて将軍徳川家光に拝謁し、印籠を下賜される。 |
| 26 | 1648年(慶安元年) | 松平(越前)直基 | 結城秀康の五男。山形から姫路に国替えを命じられたが、そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上で死去した。享年45。 |
| 27 | 1648年(慶安元年) | 松平(越前)直矩 | 直基の長男。5歳で家督を相続したが、幼少のため翌年に越後村上藩に国替となる。 |
| 28 | 1649年(慶安2年) | 榊原(松平)忠次 | 大須賀忠政の長男で、徳川四天王・榊原康政の孫。母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許される。1663年(寛文3年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後、幕府の老職(大政参与)に迎えられた。1659年(万治2年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築。1665年(寛文5年) 死去、享年61。墓所は増位山随願寺にある。 |
| 29 | 1665年(寛文5年) | 榊原政房 | 忠次の子。5月11日に父の死により家督を相続する。1667年(寛文7年)死去、享年27。 |
| 30 | 1667年(寛文7年) | 榊原政倫 | 3歳で家督を継いだが、幼少の大名には不適と判断され、越後村上藩に転封を命じられ、同地で子がないまま没する。家督は一門榊原勝直の子・政邦が継ぐ。 |
| 31 | 1667年(寛文7年) | 松平(越前)直矩 | 成人後、再び姫路に復帰。生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた。1695年(元禄8年)死去、享年54。 |
| 32 | 1682年(天和2年) | 本多忠国 | 陸奥守山藩主・松平頼元の次男。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、2代藩主・徳川光圀の甥にあたる。1704年(宝永元年)死去、享年39。 |
| 33 | 1704年(宝永元年) | 本多忠孝 | 忠国の三男。徳川家康の男系の玄孫にあたる。父の死により家督を相続するが、幼少を理由に忠孝は越後村上藩に移封された。しかし、村上城に一度も入城しないまま、1709年(宝永6年)に12歳で死去した。 |
| 34 | 1704年(宝永元年) | 榊原政邦 | 榊原勝直の長男。原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる。1716年(正徳6年)には男山八幡宮社殿を建て替え新築。1726年(享保11年)死去、享年52。 |
| 35 | 1726年(享保11年) | 榊原政祐 | 榊原政邦の次男。父の死により家督を相続。1732年(享保17年)に28歳で死去。家督は養嗣子の政岑が継いだ。 |
| 36 | 1732年(享保17年) | 榊原政岑 | 榊原勝治の次男。将棋や三味線・浄瑠璃などに堪能で遊び好きであったことから、風流大名とも好色大名ともいわれている。8代将軍・吉宗の倹約令を無視して派手を好み、吉原遊廓の花魁を大名自ら身請けしてしまったことから幕府の怒りを買い、強制隠居の上で蟄居を命じられた。その後は後見人として政務に励み、1743年(寛保3年)2月19日に死去した。享年31。 |
| 37 | 1741年(寛保元年) | 榊原政永 | 政岑の嫡男。父の隠居により家督を継ぐも、越後高田に懲罰的な転封を命じられた。1807年(文化4年)死去、享年73。 |
| 38 | 1741年(寛保元年) | 松平(越前)明矩 | 白河新田藩主・松平知清の長男。伯父にあたる松平基知の養子となり、白河藩を相続し、その後、姫路に国替となった。明矩の墓所は姫路城の南西の景福寺山にある。 |
| 39 | 1748年(寛延元年) | 松平(越前)朝矩 | 明矩の長男。11歳で家督を継ぐが幼少を理由に上野前橋藩に転封。 |
| 40 | 1749年(寛延2年) | 酒井忠恭 | 越前敦賀藩主酒井忠菊の四男。前橋藩主となっていた長兄の親本に子がなかったため、その跡を継いだ。幕府では大坂城代や老中首座を歴任した。1749年(寛延2年)、忠恭は前橋から姫路に転封する。1772年(安永元年)に藩主在職のまま死去。 |
| 41 | 1772年(安永元年) | 酒井忠以 | 祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、松平治郷(不昧)と親交を深めた。 |
| 42 | 1790年(寛政2年) | 酒井忠道 | 忠以の長男。12歳の時に父の死により家督を継ぐ。失脚していた河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだ。1814年(文化11年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、1837年(天保8年)に61歳で死去した。 |
| 43 | 1814年(文化11年) | 酒井忠実 | 忠以の次男。兄である忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。1835年(天保6年)、57歳で隠居する。家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。隠居後、鷺山と号した。正室の隆姫は、黒田孝高の血筋を引いている。 |
| 44 | 1835年(天保6年) | 酒井忠学 | 忠道の八男。叔父である忠実の養嗣子となり家督を継ぐ。正室に11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫を迎えた。37歳で死去し、家督は娘婿で養父忠実の孫(自身の従甥にあたる)の忠宝が継いだ。 |
| 45 | 1844年(弘化元年) | 酒井忠宝 | 忠学(忠讜の従兄弟にあたる)の婿養子となり、忠学の死去に伴い家督を継ぐ。1853年(嘉永6年)、25歳で死去し、跡を従弟で養子の忠顕が継いだ。 |
| 46 | 1853年(嘉永6年) | 酒井忠顕 | 三河田原藩主・三宅康直の長男。忠宝の養女文子(第5代藩主忠学の六女で、忠宝の正室喜曽姫の妹)と結婚して養嗣子となり18歳で家督を相続した。1860年(万延元年)、25歳で死去し、養子の忠績が跡を継いだ。なお、明治維新後に忠顕未亡人の文子は一時、酒井家宗家の当主となった。 |
| 47 | 1860年(万延元年) | 酒井忠績 | 忠顕に子がなかったため、その養子となり、家督を相続する。江戸幕府最後の大老。1867年(慶応3年)2月に隠居し、養子の弟・忠惇に家督を譲る。1880年(明治13年)11月、終身華族に列する。1889年(明治22年)5月、永世華族に列し、男爵を授けられた。1895年(明治28年)11月30日、死去。享年69。 |
| 48 | 1867年(慶応3年) | 酒井忠惇 | 兄・忠績の隠居により姫路藩主となる。雅楽頭、老中を歴任する。1868年(慶応4年)2月5日に老中を罷免され、3月7日には官位を剥奪され、入京を禁止される。5月20日、隠居謹慎を命じられ、忠邦を養子に迎えて家督を譲った。1907年(明治40年)11月11日に正三位に叙され、同日69歳で死去した。 |
| 49 | 1868年(慶応4年) | 酒井忠邦 | 播磨姫路藩、最後の藩主。忠惇が強制隠居となり家督を継ぐと、1868年(明治元年)11月に忠邦は版籍奉還の建白書を提出、版籍奉還実施により知藩事となった。1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で免官されると、忠邦は東京へ出て、慶應義塾に入学した。同年12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米したあと帰国した。1879年(明治12年)3月25日、26歳で死去した。 |







